仏教には多くの宗派が存在し、宗派ごとに唱えるお経が異なります。
そして、数あるお経の中でも最も有名なのが、
般若心経
ではないでしょうか。
『はんにゃーはーらーみーたー』
というフレーズや言葉を、知っていたり、聞き覚えがある方も多いのではないでしょうか。
そこでこの記事では、葬儀や法要で唱えられる『般若心経』の意味や前文の内容について紹介していきます。
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般若心経の意味と全文解説|葬儀や法要で読まれる般若心経について分かりやすく解説
『般若心経』は、葬式や法要の場面で、宗教者によって唱えられます。
唱えるタイミングは、宗派や寺院の考え方で異なりますが、
枕経
通夜
葬儀
火葬出棺前
法要
などが代表的でしょう。
特に、葬儀や法要の際に『般若心経』を唱えますが、若干意味合いが異なります。
葬儀での般若心経の役割
葬儀では、
故人を想い祈祷する
ために『般若心経』を唱えます。
祈祷(きとう)とは、僧侶がお釈迦様に、故人へのご加護を祈り、安らかな旅立ちを願うことです。
つまり、葬儀での『般若心経』は、読経によって故人を災厄から守るという意味があるのです。
宗派によっては、法華経・華厳経など他のお経と組み合わせる事もあります。
また、様々な場面で『般若心経』を唱える場合もあれば、一度しか唱えない場合もあり、宗派・寺院によって異なります。
法要での般若心経の役割
初七日法要
四十九日法要
一周忌法要
といった法要でも、『般若心経』を読経します。
葬儀では故人の冥福を祈るのに対し、法要では読経で得られる、
自分の徳を故人へ回し向ける
という『回向(えこう)』の考えに基づき、故人の供養を目的として読経します。
般若心経を唱える宗派と唱えてはいけない宗派
『般若心経』は、数あるお経の中でも、宗派を問わず唱えられることが多いお経です。
特に用いられているのが、
法相宗
天台宗
真言宗
曹洞宗
臨済宗
となっていますが、それぞれの宗派で独自の解釈をされてもいます。
また、広く唱えられている『般若心経』ですが、唱えない宗派があることも覚えておきましょう。
浄土真宗と日蓮宗は般若心経を読まない
宗派を問わず読まれている『般若心経』ですが、
浄土真宗
日蓮宗
では、宗派の考え方の違いから『般若心経』を唱えません。
浄土真宗は、阿弥陀如来の力を信じれば浄土に往生できるという、
他力本願
の教えがあり、自力による往生が説かれている『般若心経』とは、考え方が異なります。
また日蓮宗では、
法華経
が真実の教えであると説かれているため、『般若心経』を含む他のお経が読まれることはありません。
しかしながら、宗派の教えで『般若心経』が読まれることはありませんが、読経を禁止している訳ではありません。
全く同じ内容の『お葬式』なのに、
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般若心経の基本知識を解説
ここからは、『般若心経』の基礎知識を紹介します。
『般若心経』は、
般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)
という名称の経典です。
『般若波羅蜜多』について説く経典は数多くあり、それらを総称して『般若経典』と呼びます。
『般若心経』はその中の一つで、『般若経典』の真髄を短くまとめたとする経典です。
大乗仏教における、
空の思想
般若の思想
を説いていて、インドの言語サンスクリット語では、『プラジュニャーパーラミター・フリダヤ』と呼ばれています。
*プラジュニャー ⇨ 般若
*パーラミター ⇨ 波羅蜜多
*フリダヤ ⇨ 心
*スートラ ⇨ 経
「般若波羅蜜多」は、悟りに至るための完全な智慧という意味です。
心は、真髄を表しています。
そのため『般若心経』は、完全な智慧の真髄という意味になるのです。
般若心経の起源
般若経典は、紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。
そして、7世紀初頭頃にさかのぼり、西遊記に出てくる三蔵法師『玄奘(げんじょう、げんぞう)』が、インドから中国に持ち帰った『大般若経』が原書とされています。
三蔵法師は、サンスクリット語で書かれた『大般若経』を漢語に訳し、600巻ほどにしたためました。
その600巻をわずか300字弱で表現したものが『般若心経』です。
また『般若心経』には、『玄奘』訳のように観音菩薩の説法にあたる、本文だけからなる、
小本
と、本文の前後の物語の基本的な設定にあたる、序文やエピローグを含んだ、
大本
の2系列があります。
最初に神髄を抽出した『小本』が作られ、後に経典として『大本』が作られたとされています。
なお『般若心経』の漢語訳は8種類存在しており、
鳩摩羅什訳 ⇨ 摩訶般若波羅蜜大明呪経
玄奘訳 ⇨ 般若波羅蜜多心経
義浄訳 ⇨ 仏説般若波羅蜜多心経
法月 ⇨ 普遍智藏般若波羅蜜多心経
般若・利言譯 ⇨ 般若波羅蜜多心経
智慧輪訳 ⇨ 般若波羅蜜多心経
施護訳 ⇨ 聖佛母般若波羅蜜多経
法成訳 ⇨ 般若波羅蜜多心経
という時系列で訳されています。
4~5世紀には、【1】の『鳩摩羅什(くまらじゅう)』という僧侶が、初めて『般若心経』を漢語に訳したとされています。
その後、『玄奘』も漢語に訳し、更に『鳩摩羅什』訳の誤訳部分を修正したとされています。
そして、『玄奘』訳以降の漢語訳は、『玄奘』訳をベースにそれぞれの解釈を加えた内容となっているため、
『玄奘』訳が般若心経の基礎
とされているのです。
般若心経の全文|漢訳と読み仮名
それでは、『般若心経』の内容を紹介していきます。
まず、『般若心経』の全文を読み仮名を付けていきます。
仏説摩訶(ぶっせつまか)
般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)
心経(しんぎょう)
観自在菩薩(かんじざいぼさつ)
行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)
度一切苦厄(どいっさいくやく)
舎利子(しゃりし)
色不異空(しきふいくう)
空不異色(くうふいしき)
色即是空(しきそくぜくう)
空即是色(くうそくぜしき)
受想行識亦復如是(じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ)
舎利子(しゃりし)
是諸法空相(ぜしょほうくうそう)
不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄(ふくふじょう)
不増不減(ふぞうふげん)
是故空中(ぜこくうちゅう)
無色(むしき)
無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
無限耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)
無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
無眼界(むげんかい)
乃至無意識界(ないしむいしきかい)
無無明亦(むむみょうやく)
無無明尽(むむみょうじん)
乃至無老死(ないしむろうし)
亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道(むくしゅうめつどう)
無智亦無得(むちやくむとく)
以無所得故(いむしょとくこ)
菩提薩埵(ぼだいさつた)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
心無罣礙(しんむけいげ)
無罣礙故(むけいげこ)
無有恐怖(むうくふ)
遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)
究竟涅槃(くうぎょうねはん)
三世諸仏(さんぜしょぶつ)
依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみった)
是大神呪(ぜだいじんしゅ)
是大明呪(ぜだいみょうしゅ)
是無上呪(ぜむじょうしゅ)
是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)
能除一切苦(のうじょいっさいく)
真実不虚(しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみったしゅ)
即説呪日(そくせつしゅわつ)
羯諦(ぎゃてい)
羯諦(ぎゃてい)
波羅羯諦(はらぎゃてい)
波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)
菩提薩婆訶(ぼじそわか)
般若心経(はんにゃしんぎょう)
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般若心経の和訳と意味
それでは、『般若心経』の漢訳を和訳してみましょう。
お釈迦様が瞑想中の観音様と弟子のシャーリプトラの会話劇となります。
分かりやすくするために、若干本来の意味と異なる部分もありますが、ご了承下さい。
*観音様 ⇨阿弥陀如来の慈悲を表す観世音菩薩
物語は、観音様が一切の苦しみから解放されたことから始まります。
解放されるには、全てが「空」と見抜くべきという考えに至り、弟子のシャーリプトラの問いかけから始まります。
シャーリプトラ
『悟りを得て、この世の苦しみから逃れるには、どうすれば良いのでしょうか?』
観音様
『この世のあらゆるものには実体がない。
つまり本来は視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・心といったものは存在しない。
だから、物事に執着したり、一つの価値観にとらわれてしまう必要はない。
私はこのように聞いています。
お釈迦様が大勢の出家した弟子や菩薩様達と共に、王舎城の霊鷲山にいらっしゃた時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。
その時、観音様(観自在菩薩)は深淵な智慧の完成(般若波羅蜜多)の修行をされ見極められました。
「人は私や私の魂と言うものが存在していると思っているが、実際に存在するのは、体・感覚・イメージ・感情・思考という、一連の知覚・反応を構成する5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもない。
また、それらの他に私がある訳でもないのだから、結局どこにも私というものは存在しない。
しかも、それら5つの要素も幻のように実体がない」と。
そして、この智慧によって、全ての苦しみや災いから抜け出すことができました』
シャーリプトラ
『深淵な智慧の完成の修行をするためには、どのように学べばよいのでしょうか?』
観音様
『体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。
身体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在する訳ではありません。
身体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。
これは、体だけではなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです。
つまり私が存在すると、こだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教がいうような実体ではありません。
このように全ては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。
汚れているとか、清らかであるということもありません。
迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。
このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。
目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。
目に映る世界から、心の世界まですべてありません。
つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません。
迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。
同様に迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません。
つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。
つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません。
知ることも、修行の成果を得ることもありません。
また、得ないこともありません。
このような境地ですから、菩薩様達は智慧の完成によって、心に妨げがありません。
心に妨げがないので恐れもありません。
誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。
過去・現在・未来のすべての仏様も、この智慧の完成によって、この上なく完全に目覚められたのです。
ですから知らないといけません。
智慧の完成は大いなる真言、大いなる悟りの、最高の、他に比べるものもない真言であり、すべての苦しみを取り除き(取り除く真言であり)、偽りがないので確実に効果があります。
さあ、智慧の完成の真言はこうです。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー」
(智慧よ、智慧よ、完全なる智慧よ、完成された完全なる智慧よ、悟りよ、幸あれ)
深淵な、智慧の完成の修行をするには、以上のように学ぶべきなのです。』
この時、お釈迦様は瞑想を終えられ、『その通りです』と喜んで、観音様を褒められました。
そして、観音様やシャーリプトラ、その場にいた一同はじめ、世界の全ての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。
般若心経の目的と解説
では、先程の和訳を掘り下げてみましょう。
『般若心経』の序盤では、一切の苦しみから解放された「空」の考え方から始まり、「六波羅蜜」をもって、般若の智慧を完成させたとされています。
「六波羅蜜」とは、
布施(ふせ) ⇨ 施すこと
持戒(じかい) ⇨ 善い行い
忍辱(にんにく) ⇨ 耐え忍ぶこと
精進(しょうじん) ⇨ 努力
禅定(ぜんじょう) ⇨ 心を静める
智慧(ちえ) ⇨ 他5つの総括
を指し、施し、善行を重ね、耐え忍び、努力を怠らず、心を静かにすることで、般若の智慧を完成させたとされます。
五蘊皆空(ごうんかいくう)とは
そして、「五蘊皆空(ごうんかいくう)」に気付くことで、一切の苦しみから解放されたとされています。
「五蘊」とは、人間を形成するものを指し、
色蘊(しきうん) ⇨ 肉体など全ての物質
受蘊(じゅうん) ⇨ 苦楽を感受する働き
想蘊(そううん) ⇨ 何かを認識する働き
行蘊(ぎょううん) ⇨ 受蘊、想蘊を除く全ての心の働き
識蘊(しきうん) ⇨ 心そのもの
この5つの「蘊」が集まり、人間を形成しているされます。
また、「皆空(かいくう)」という部分は、仏教の「空(くう)」の考えに由来します。
仏教には、「全てのものは因縁によって成り立つ」という考え方があります。
因 ⇨ 万物の直接的な要因となるもの
縁 ⇨ 間接的な要因となるもの
つまり、「因」と「縁」が揃って始めて、物質として成立するとなるのです。
実体が存在しないということは、「皆空」(すべては空である)となります。
そのため「五蘊皆空」とは、
人間の肉体も心も皆空で実体は存在しないもの
という意味になるのです。
色即是空(しきそくぜくう)、不生不滅(ふしょうふめつ)とは
「色即是空」では、
肉体は実体がないものの、因と縁により存在している
とし、「空」ではないと説かれています。
実体のない中で、悟りについて考えることを命題と掲げているのです。
そして、「不生不滅」は、「因」と「縁」が結びつくか、離れるかだけなので、生まれることも滅することもないという意味です。
万物は、「因」と「縁」のつながりのため、汚れることも増えることも、減ることもないと説かれています。
この世の全てに実体はないという教え
無限、耳、鼻、舌、身、意
無色、声、香、味、触、法
という、五感や第六感も、因縁が離れれば実体はないと説かれています。
また、「十二因縁」という人間が迷う12個の原因にすら、実体はなく因縁が結び付いているだけのものと説かれています。
四聖諦(ししょうたい)に実体はない
「四聖諦」とは、「苦集滅道(くじゅめつどう」と呼ばれる、4つの真理を表す言葉です。
苦諦(くたい) ⇨ 人生は苦なりという真理
集諦(じったい) ⇨ 苦しみの原因を明かす心理
滅諦(めったい) ⇨ 真の幸福を明かした心理
道諦(どうたい) ⇨ 信の幸福に辿り着く道を明かした心理
この「四聖諦」にも、実態はないと説かれています。
彼岸に渡る智慧を得たことで仏の悟りを得た
『般若心経』の中には、
罜礙(けいげ) ⇨ 煩悩
顛倒、夢想 ⇨ 間違った考え方
という言葉があり、「煩悩がないので恐怖がなく、一切の間違った考え方から離れることで、涅槃の極みに到達する」と説かれています。
また、「三世諸仏」という、
過去
現在
未来
3つの世界にいる全ての仏を意味する言葉があり、「全ての仏は、彼岸に渡る智慧を得たことで、仏の悟りを得た」と説かれています。
なお『彼岸』とは、浄土を指します。
般若心経の結論
観音様は、『般若心経』の最後を『真言(マントラ)』で締めています。
故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみったしゅ)
この「呪」が『真言』を指します。
羯諦(ぎゃてい)
羯諦(ぎゃてい)
波羅羯諦(はらぎゃてい)
波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)
菩提薩婆訶(ぼじそわか)
「羯諦」は、行くを意味します。
そして「波羅」は、向こう側となり、「彼岸(浄土)」となります。
また、「菩提」は仏の悟りを意味し、「薩婆訶」は成就するという意味です。
つまり、「仏の道を完成させて彼岸に向かえば、仏として生まれることができる」という意味の『真言』となる訳です。
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般若心経は真言を修行し伝授するもの
お釈迦様が生きていた当時のインドの宗教・思想では、禁欲や苦行、無念無想の瞑想を行い、欲望や執着を制御し、解脱ができると考えられていました。
しかしお釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解し、なくすことで解脱できると考えました。
また仏教は、大別して、
小乗仏教 ⇨ 仏教の修行をしている人のみ悟りの境地に辿り着くため
大乗仏教 ⇨ 全ての人が悟りの境地に辿り着くため
があり、上記のような教えです。
そして『般若心経』の重要な教えである「空」の思想は、個別の物事に捉われず、執着しない、「実体はない」という考え方は、全ての人が悟りの境地に至れるとされています。
『般若心経』では、
全ての物事は変化し続ける
ことを前提としています。
そして、変化し続けたとしても、物事の本質が存在することは変わらないとされています。
そして、「般若波羅蜜多」の神髄は「真言」であるとされています。
ちなみに「真言」とは、真実の言葉でお釈迦様の真理をを説き、その徳を称える短いお経です。
対して、長いお経は「陀羅尼(だらに)」と呼びます。
「真言」は、唱えるだけで何かが叶えられる訳ではありません。
「真言」は、経典や仏智慧を心の中に呼び起こし、保持するための言葉です。
つまり『般若心経』の「真言」は、「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。
まとめ
今回は、葬儀や法要で唱えられる『般若心経』の意味や前文の内容について紹介しました。
『般若心経』は、唱えられる機会が多く、耳にした方も多いものです。
宗派によっては、『般若心経』を唱えない宗派もありますが、読経が禁止されている訳ではありません。
『般若心経』は、「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけ、修行の目標そのものを意味します。
また『般若心経』は、全てものには実体がないという「空」の考えから、一切の苦しみからの解放、そして全ての人が悟りの境地に至れるという教えです。
葬儀 ⇨ 故人を想い祈祷する
法要 ⇨ 自分の徳を故人へ回し向ける
というように、葬儀や法要での『般若心経』の意味合いと、本来の意味合いは若干異なりますが、故人の供養と自分の修行という理解をして頂ければ良いかと思います。
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これが、葬儀の2大トラブルであり、クレームの大半だと言えます。
そんな葬儀トラブルを回避するためにも、葬儀の準備は事前に行うことが大切なのです。
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